茶道の歴史
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(財)表千家不審庵より一部抜粋
茶の湯に使う抹茶の作り方、たて方、飲み方などを中国・宋の国からわが国に紹介したのは、栄西(えいさい)禅師と言われています。
栄西禅師が伝えたものは、中国の禅院の茶礼です。禅院の茶礼が薬用としての喫茶の習いは、僧や貴族階級へ次第に普及して行きました。
室町時代に入って、寺院茶礼から、一般庶民の趣向へと普及する架け橋となったのが南北朝時代の闘茶です。闘茶は茶の味を当てる賭事であり、これが貴族・上流武士の間にもてはやされました。最初は単なる賭事と唐物趣味の卑俗な綜合でありましが、武家礼法の形成とときを同じくして、茶礼が形を整えてきました。とくに足利将軍家に仕えた同朋衆の一人能阿弥(のうあみ)は、書院飾りや台子飾りの法式を完成したと伝えられています。
室町時代を通じて、唐物趣味豊かな書院飾りが流行しつつも、次第に掛物あるいは、他の道具組に、和様化の傾向が見られます。またこの時代に庶民文化として純日本的な芸道である能楽及び華道が大成されたことも見逃せません。
珠光(1423-1502)は、唐物趣味の上に、日本的なものを加え、形式よりも精神性を重んじました。大徳寺の一休和尚に参禅して茶禅一味の境地に達し、また「藁屋に名馬つなぎたるがよし」と語って「陀び(わび)」の一端を示しました。室内装飾の調和だけでなく、外界の景色や季節の推移にも心をとめました。珠光は簡素の中に、美と調和を求めたのであり、これこそ日本人の心の底から湧きでる神秘な深い喜びを秘めた美であったとされ、このことが、珠光を茶湯開山と呼ばせるゆえんです。
珠光の発見した美は、紹鴎及び利休によってなお一層深められました。珠光が武家の茶礼と禅を結び付けたのに、紹鴎は、日本の伝統的を詩情を加えました。
利休は、北向道陳、つぎに紹鴎に師事して茶を学び、信長及び秀吉に茶頭(茶の指南役のこと)として仕えました。利休は紹鴎よりさらに一歩進み、古法の上に新法を加えて、茶道を大成しました。利休は大徳寺の笑嶺和尚、また晩年には古渓和尚について参禅し、禅の理想境を茶の世界に具現したのです。もちろん室町・桃山という文化のらん熟期と信長・秀吉という後楯のあったことも無視出来ません。
かくして利休の大成した茶道が、現代のわれわれの精神性・生活様式に及ぼした影響は非常に大きいものがあります。
利休は、秀吉の怒りをかって自刃しましたが、利休の二男少庵は、蒲生氏郷の取りなしによって召し出され、千家の再興を許されました。現在の表千家並びに裏千家の屋敷は、この少庵によって再興された所です。
少庵の子宗旦は、生涯仕官せず、佗び茶に徹しました。宗旦には、四男がおりましたが、長男宗拙は、家を継がず、二男の宗守は武者小路に、官休庵を創めました。三男江琴は宗且より家督をゆずられ、宗且は四男宗室を連れて裏の今日庵に隠居し、ここに本家を表千家とする三千家が成立しました。江琴宗左は、徳川御三家の一つ紀州徳川家に代々仕え、以来明治維新まで、徳川家の茶頭として、茶道界に君臨しました。
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