嵯峨御流の歴史
嵯峨の離宮
京都に都をお定めになったのは、桓武(カンム)天皇です。その皇子である嵯峨天皇(786−842)は、嵯峨の地を大変に愛されて、ここに離宮をお造りになりました。そして弘仁十四年(823)、位をお譲りになってからは、この離宮を仙洞御所としてお住まいになったのです。
その庭に造られたのが大沢の池です。中国の洞庭湖を模して造られたので「庭湖(ていこ)」とも呼ばれるこの池は、日本最初の庭池として、重要文化財に指定されています。池には天神島と菊ガ島という二つの島があり、その中間に、庭湖石と呼ばれる岩が顔をのぞかせています。
嵯峨天皇は、日本人の心の糧としての新しい日本仏教を望まれ、浄行僧に対して援助をなさいました。ことに弘法大師空海とは深い交わりを結ばれました。
弘法大師は、天皇の恩寵のもとにインド、中国、日本と三国にわたる仏教思想の中の密教を止揚して、日本の密教を打ち立てました。日本密教では、特に、植物のいのちも人間のいのちも変わりのない大日如来(大宇宙のいのち)の分身であると教えています。
さて、ある秋の日、嵯峨天皇は大沢の池の菊ガ島に咲いていた菊を手折られ、御殿の瓶に挿されたところ、それが自然に三才の美しい姿を備えていたので、たいへん感動されて、「爾今、花を賞ずる者は、これを範とすべし」とおっしゃいました。これが嵯峨御流いけばなの始まりであると伝えられています。
嵯峨御所
後宇多法皇(1267−1324)は蒙古襲来当時の天皇ですが、譲位ののち大覚寺にお住まいになりました。そして、その皇子後醍醐天皇が即位されると、法皇は初めの四年間、この大覚寺で院政をとられました。
大覚寺が嵯峨御所とか、嵯峨王府と呼ばれるようになったのは、このためです。法皇が院政をとられたお部屋、「御冠の間」はいまも残っています。
嵯峨御流の生花(セイカ)
寛永六年 (1629)、有名な禁中大立花会を主催された後水尾天皇は、御子が大覚寺御門主だったので、たびたび寺へお越しになりました。
この立花会については、「槐記(カイキ)」に、「京都の御所の紫宗殿から南門まで、庭一面に仮屋を設けて、僧侶、町人に至るまで、上手な者はみな出品を許された」と記されており、その盛観さと、天皇の花道へのご造詣の深さをしのばせます。
天皇は、皇后である東福門院の御殿を大覚寺に寄進されました。これが今に残る宸殿です。
さて、花瓶の中心に技を立て、その前後左右に枝を配する立花様式のいけばなが最盛期を迎えていたこのころ、もつと自由な、抛入(ナゲイレ)様式のいけばなが行われるようになりました。
やがて、抛入と立花の中間をいく花が起こり、元禄以後、文化文政年間には「生花(セイカ)」といういけばな様式に発展しました。現在いろいろの流に伝わる生花様式のすべてが、このころに完成しましたが、未生流(ミショウリュウ)の創始者未生斎広甫が確立した生花も、例外ではありません。
次いで二代目となって未生流生花を完成した未生斎広甫は、文政十二年(1829)頃京都に上り、嵯峨御所の華務職を務めて、法眼の称号を許されました。
広甫は、文久元年(1861)大阪で亡くなりましたが、「四方の薫」「蓬の杏」「献備千歳の花」などの書物を残しました。そのうち「献備千歳の花」は、嵯峨天皇の一千年御遠忌に献じた花を写して出版したものです。
嵯峨御所において認許された流派、天皇のお花という意味を込めて、「御流」の文字をいただき、「未生御流」と称したこの流儀は、やがて全国各地に大きく広まりました。
盛花・瓶花の創成
明治時代に入りますと、西洋文明が急速にわが国に導入されまして、植物も目新しい洋花が輸入されるようになりました。建築様式も変わり、社会思想も文明開化の波が押し寄せて、これらの草花もいけばなに用いる必要性から、盛花、投入、瓶花の様式が誕生しました。
大覚寺華道総司所においても、昭和に入って大沢の池の清澄な趣、二島一石のみごとな配置を規範として盛花が生まれ、さらに瓶花が生まれました。
そして、仏前の供華の精神に立脚した「嵯峨荘厳華」の花態様式が制定されるに及び、「未生御流−生花」および「嵯峨流−盛花・瓶花」の三様式が完備され、これらを総称して嵯峨流と呼ぶようになったのです。
嵯峨御流の名称
「嵯峨流」という呼称が生まれてからの年月は、嵯峨に離宮が設けられてからの年月にくらべて、ほんの短いものです。しかしながら、一千年以上も昔から嵯峨の地に花を咲かせた宗教と文化の伝統が脈々と流れて、今日の大覚寺の中に息づいているのだということが、おわかりになったと思います。大覚寺の長い歴史は、そのまま嵯峨のいけばなの歴史でもあるのです。
いけばなが日本の誇る伝統文化として、外国の人たちにも深く理解愛好され、研究が活発になされてきました。また花道界にも諸流との交流が始まり、各地域で花道協会が次々と発足して、作品発表の場が広がり、諸流展が開催されるようになりました。当流でも同じ家元内で三つの流名を使用することはたいへん不便であり、またいろいろと混乱も生じたことから、昭和五十年より流内では三流名はそのまま残し、対外的には「嵯峨御流」と呼ぶようになりました。
心粧華
平成三年(1991年)、初心者でも楽しく取り組める花として「心粧華」という現代花が生まれ、従来の花を「伝承花」と呼ぶようになりました。
「心粧華」は、これまでのいけばなが、まえもって定められた花形のなかで、その美しさを表現するものであったことに対して、植物が本来的にもっている美しさとかエネルギー、気などが、おのずと花姿を決めていくというものです。この逆転の発想により、生花は「才の花」、盛花・瓶花は「想い花」、荘厳華は「祈り花」として新たな命が吹き込まれました。
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