いけばなとは何か

出典:嵯峨御流いけばなほか


お習いに来る生徒さんのために、いけばなのテキストを作りました。内容のほとんどは、主婦の友社「嵯峨御流いけばな」から引用させて頂きました。今回、いけばなに興味をお持ちの方に是非ともいけばなの心を感じて頂きたく、今回その一端をご紹介させて頂くことになりました。

生活の中に生きるもの生活の中にこそいけばながある

 「いけばな」とは、花や木の美しさを花器にいけることです。けれどもそれは、花をどう組み合わせ、どう入れるかという技術に留まるものではありません。
 しかしまた、いけばなを生活からかけ離れた「芸術」だとする考えも、偏っていると思われます。いけばなが芸術であることは間違いない事実ですが、それは、私たちの日常生活と密接に結びついて存在しています。花道家が芸術作品として創作する場合は別として、−
だれもが家庭で楽しめ、生活の中での喜びと慰めになること−ここに、いけばなの存在意義があるのです。

日本の自然といけばな

 日本の国土は南北に長く横たわっているので、温帯と寒帯の気候を二つとも持っているために、非常に豊富な種類の植物が生育しています。
 また、日本には四季があり、その移り変わりは春、夏、秋、冬と明確に進行します。そこで花は、同種のものでも、早咲きのものから遅咲きのものまで、この四季の変化に応じて徐々に花を開き、木々もまた、時を違えて紅葉していきます。一本の木、一つの草の小さな変化をも、私たちは見ることができます。
 春には百花爛漫、夏には若葉のまぶしいばかりの緑、秋には満山の紅葉、冬には蕭条(ショウジョウ)たる樹枝のたたずまい、そして次々に花を開く可憐な野の花、畑の花−日本の国土は、変化に富んだ美しい自然に恵まれているのです。
 植物にとって、日本の自然は決して住みやすいとは言えません。
 激しい雪や風雨が植物をいじめ、その生育を妨げています。しかしながら雪や風や雨は、木々に味わい深い曲がりや節をつけ、霜は木や草の背丈を小さく抑えて、紅葉や霜枯れの風趣を生みます。霧は、木肌を苔でおおわせます。
 私たちの祖先は、農耕を暮らしの主体としていた関係で、このような植物の変化を敏感にとらえ、それに魅せられたのでした。
 いけばなが日本にのみ生まれ育った理由がここにあります。
 美しい自然。四季の変化に対応して微妙な変容を見せる、色々な植物。厳しい自然の中でも力強く息づいている木や草花。
 私たちの祖先は、この植物に分身に対するような愛情を覚えたのでした。
 人々はそれらを瓶に移して、神仏にささげ、花との語らいを始めました。そして、少しでも長もちをさせたいと考えました。
 これが、いけばなの発端でありましよう。そしてさらに進んで、自然美の再現だけでなく、そこにより深い感動を持たせようとしたとき、芸術的な行為としてのいけばなが生まれたのです。

いけばなけいこの心構え

 いけばなの誕生以来長い歴史をへた今日、いけばなはますます隆盛をきわめていますが、いけばなを勉強するとき、ともすると技法の面のみを重視する傾向が見られることも事実です。
 「花をいけること」はたしかに技術であり、順序をふんでテクニックを学ばなければ、よい花はいけられません。けれども、技術だけがいけばなのすべてではありません。
 古代の人々は、美しい花を神にささげ、神のみこころを和らげようとしました。自分たちの神に対する敬虔な気持ちをあらわしました。古事記や日本書紀、万葉集に、神を祭るときにときわ木を用いたこと、それに「和幣(ニキテ)」とか「白香(シラカ)」などをつけたことが記されています。
 やがて仏教が普及してくると、仏に対して花を奉る、「供華(クゲ)」のならわしが、同じように一般に行われるようになりました。
 いけばなの前史としての「献花」(神に奉る花)「供華」は、さらに神仏に対してだけではなく、客への供応の花に、つづいて家族を対象とするだんらんの花に、そして自分自身のための花へと移ってきたようです。
 しかし、いずれの場合も花は単なる形だけ、色だけの素材ではなく、生命の表現であり、花をいける人の深い思いを託するものでありました。
 それゆえ、花に向かうときとは、自己の心への厳しい問いかけをするときでもあったのです。
 昔から
「花道十徳」といわれていますが、その中に、「無意他念」(邪念なく、三昧の境地に至って道を悟る)、「諸悪離別」(悪から離れて、清らかな品性を養う)、「精魂養生」(精神が浄化され、徳を備える)などがあります。
 これらはすべて、いけばなによって得られる心の徳といったものであり、いけばなを学ぶことは、すなわち自分自身を向上させることにほかならないのだと教えているのです。そしてこれは、現在のいけばなにもそのままあてはまります。
 精神の高さは、花のできばえにそのままあらわれます。
「花は心のかがみである」という伝書の言葉は、このことを述べているのです。心の込もらない花は単なる「見せもの」であり、形にすぎません。
 おけいこのときの、花の取り扱い、いけ終わったあとの始末、花を長もちさせるための心くばり、教えを受けている先生や友だちに対する礼儀、お招きしたお客に対する心づかい−すべてに思いをこらし、花にも人にも謙虚でありたいものです。いけばなによって自分の心の修業をするという心構えでありたいものです。
 それが、ひいては私たちの生活そのものを豊かな美しいものにつくり上げる−生活の芸術化につながりましょう。おけいこを始めるにあたって、このことをしっかりとつかんでおいてください。

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嵯峨御流の歴史

嵯峨の離宮大沢の池

 京都に都をお定めになったのは、桓武(カンム)天皇です。その皇子である嵯峨天皇(786−842)は、嵯峨の地を大変に愛されて、ここに離宮をお造りになりました。そして弘仁十四年(823)、位をお譲りになってからは、この離宮を仙洞御所としてお住まいになったのです。
 その庭に造られたのが大沢の池です。中国の洞庭湖を模して造られたので「庭湖(ていこ)」とも呼ばれるこの池は、日本最初の庭池として、重要文化財に指定されています。池には天神島と菊ガ島という二つの島があり、その中間に、庭湖石と呼ばれる岩が顔をのぞかせています。
 嵯峨天皇は、日本人の心の糧としての新しい日本仏教を望まれ、浄行僧に対して援助をなさいました。ことに弘法大師空海とは深い交わりを結ばれました。
 弘法大師は、天皇の恩寵のもとにインド、中国、日本と三国にわたる仏教思想の中の密教を止揚して、日本の密教を打ち立てました。日本密教では、特に、植物のいのちも人間のいのちも変わりのない大日如来(大宇宙のいのち)の分身であると教えています。
 さて、ある秋の日、嵯峨天皇は大沢の池の菊ガ島に咲いていた菊を手折られ、御殿の瓶に挿されたところ、それが自然に三才の美しい姿を備えていたので、たいへん感動されて、「爾今、花を賞ずる者は、これを範とすべし」とおっしゃいました。これが嵯峨御流いけばなの始まりであると伝えられています。

嵯峨御所

 後宇多法皇(1267−1324)は蒙古襲来当時の天皇ですが、譲位ののち大覚寺にお住まいになりました。そして、その皇子後醍醐天皇が即位されると、法皇は初めの四年間、この大覚寺で院政をとられました。
 大覚寺が嵯峨御所とか、嵯峨王府と呼ばれるようになったのは、このためです。法皇が院政をとられたお部屋、「御冠の間」はいまも残っています。

嵯峨御流の生花(セイカ)

 寛永六年 (1629)、有名な禁中大立花会を主催された後水尾天皇は、御子が大覚寺御門主だったので、たびたび寺へお越しになりました。
 この立花会については、「槐記(カイキ)」に、「京都の御所の紫宗殿から南門まで、庭一面に仮屋を設けて、僧侶、町人に至るまで、上手な者はみな出品を許された」と記されており、その盛観さと、天皇の花道へのご造詣の深さをしのばせます。
 天皇は、皇后である東福門院の御殿を大覚寺に寄進されました。これが今に残る宸殿です。
 さて、花瓶の中心に技を立て、その前後左右に枝を配する立花様式のいけばなが最盛期を迎えていたこのころ、もつと自由な、抛入(ナゲイレ)様式のいけばなが行われるようになりました。
 やがて、抛入と立花の中間をいく花が起こり、元禄以後、文化文政年間には「生花(セイカ)」といういけばな様式に発展しました。現在いろいろの流に伝わる生花様式のすべてが、このころに完成しましたが、未生流(ミショウリュウ)の創始者未生斎広甫が確立した生花も、例外ではありません。いけばなの基本、生花(せいか)
 次いで二代目となって未生流生花を完成した未生斎広甫は、文政十二年(1829)頃京都に上り、嵯峨御所の華務職を務めて、法眼の称号を許されました。
 広甫は、文久元年(1861)大阪で亡くなりましたが、「四方の薫」「蓬の杏」「献備千歳の花」などの書物を残しました。そのうち「献備千歳の花」は、嵯峨天皇の一千年御遠忌に献じた花を写して出版したものです。
 嵯峨御所において認許された流派、天皇のお花という意味を込めて、「御流」の文字をいただき、「未生御流」と称したこの流儀は、やがて全国各地に大きく広まりました。

盛花・瓶花の創成

 明治時代に入りますと、西洋文明が急速にわが国に導入されまして、植物も目新しい洋花が輸入されるようになりました。建築様式も変わり、社会思想も文明開化の波が押し寄せて、これらの草花もいけばなに用いる必要性から、盛花、投入、瓶花の様式が誕生しました。
 大覚寺華道総司所においても、昭和に入って大沢の池の清澄な趣、二島一石のみごとな配置を規範として盛花が生まれ、さらに瓶花が生まれました。
 そして、仏前の供華の精神に立脚した「嵯峨荘厳華」の花態様式が制定されるに及び、「未生御流−生花」および「嵯峨流−盛花・瓶花」の三様式が完備され、これらを総称して嵯峨流と呼ぶようになったのです。

嵯峨御流の名称いけばなにはいろいろないけ方があります

「嵯峨流」という呼称が生まれてからの年月は、嵯峨に離宮が設けられてからの年月にくらべて、ほんの短いものです。しかしながら、一千年以上も昔から嵯峨の地に花を咲かせた宗教と文化の伝統が脈々と流れて、今日の大覚寺の中に息づいているのだということが、おわかりになったと思います。大覚寺の長い歴史は、そのまま嵯峨のいけばなの歴史でもあるのです。
 いけばなが日本の誇る伝統文化として、外国の人たちにも深く理解愛好され、研究が活発になされてきました。また花道界にも諸流との交流が始まり、各地域で花道協会が次々と発足して、作品発表の場が広がり、諸流展が開催されるようになりました。当流でも同じ家元内で三つの流名を使用することはたいへん不便であり、またいろいろと混乱も生じたことから、昭和五十年より流内では三流名はそのまま残し、対外的には「嵯峨御流」と呼ぶようになりました。

心粧華心粧華、現在花のいけかたです

平成三年(1991年)、初心者でも楽しく取り組める花として「心粧華」という現代花が生まれ、従来の花を「伝承花」と呼ぶようになりました。
「心粧華」は、これまでのいけばなが、まえもって定められた花形のなかで、その美しさを表現するものであったことに対して、植物が本来的にもっている美しさとかエネルギー、気などが、おのずと花姿を決めていくというものです。この逆転の発想により、
生花は「才の花」、盛花・瓶花は「想い花」、荘厳華は「祈り花」として新たな命が吹き込まれました。

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